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時空間における世界の構成原理と時空間移動の可能性

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 「時間移動は可能なのか」という問いに対して、私は「可能だ」と答えることができる。しかし、「歴史を変えることはできるのか」という問いに対しては、私は答えに窮する。敢えて答えるとするならば「可能ではあるが、我々には歴史の変化が分からない」であろう。
 どうしてそのような答えになるかと言えば、前者についてはその証明となるものが私の目の前にあるからであり、後者はそもそも私の考える仮説自体がそうならざるを得ないからである。ここではその仮説について話していこうと思う。
 まず、時間移動―今は過去への時間移動に限定する―を語るにあたって、世界の在り方は二種類に大別される。単純に、歴史が変わるのか否かである。世界は、一方では変革可能な不安定なものと見なし、一方では不変で絶対的なものと見なしている。私の考えは、このどちらも包括するものと言えるのだが、それを説明するためには、まずこの二つの説について話さねばなるまい。
 この時間移動における世界の捉え方を分ける境界は、俗に言うタイムパラドックスをどう処理するかということにある。その例としてもっとも知られていたのは「親殺しの矛盾」であろう。
 仮に、私が私の生まれる前の過去へ行ったとしよう。そこで(事故にしろ故意にしろ)私の親となるはずの人を殺してしまったとすればどうなるだろうか。親は私を生む前に死ぬため、私は生まれてこないことになる。そうなると、過去で親が私に殺されることはなくなるので、私はやはり存在し、過去へ行くことができ…。後はその繰り返しである。
 変えられる世界をモデルとする考えでは、現在は過去によって形成されるものであるため、現在よりも過去が優先される。故に、先の例では親が殺された時点で、私の存在とその後の歴史はなかったものとされ、世界はそこから改変、もしくは再構築される。しかし、それでは「生まれてくるはずのない人物に殺された」という変えられない矛盾が存在し、パラドックスは解決されていない。事実は残り、歴史は矛盾によって歪められたまま、強引に繋げられるだけである。つまり、この説における世界はタイムパラドックスを必然的に受け入れていることになり、この世界自体が矛盾だらけだということになってしまう。
 では、我々が世界の矛盾に気付くことはないのだろうか、と疑問に思うかもしれない。しかし、変えられる世界にとっての矛盾とは、それすらも世界を構成する重要な要素である。我々が『矛盾』だと思えるものは世界にとっての『必然』であり、それなしで世界は成り立たないのである。したがって、それによって存在し得る世界に生きる我々が、その矛盾に気付き、証明することなど不可能であろう。我々の存在さえも、その『矛盾』であるかもしれないのだから…。  


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